光市母子殺害死刑求刑2007年10月19日 02:44

 光市母子殺害差し戻し控訴審弁論で検察側は「死刑を回避するに足りる十分な事情を一切見いだすことはできない」と改めて死刑を求めた。どんな人間でも死ぬのは怖いのだろうか?他人は殺せても自分は殺せない。その逆の人もいる。人は殺せないが自分で死んでいく。私において死はまだ遠くに感じているがいずれ訪れる。そのとき私は88歳で亡くなった一休禅師のようにおもてでは「須弥南畔誰か我禅に会う。虚堂来る也。半銭に値せず(この世界、誰か私の禅を理解できる人はいるのか。中国南宋の禅の高僧・虚堂(きどう)が来ようと、何の価値も無い)」と格好いいことをいいながら裏では盲目の愛人に「まだ、死にとうない」といって死んだ未練たらしい死に方を選ぶのだろうか?出来れば、十返舎一九 のように「この世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに ハイ(灰)左様なら」と洒落っぽくい(往)きたいものだが。

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