古代塩の謎2007年10月04日 03:16

 縄文の物々交換において塩は重要な産物だったと思われる。それではどんな方法で塩を採っていたかといえば最初は海藻を焼いた灰(灰塩)をそのまま使っていたと考えられる。次にはその灰塩(はいじお)と海水を混ぜ濃い海水(かん水)を作りこれを煮つめて塩を作った。その次には海藻を干して表面についた塩を海水で洗い出してかん水を作り、これを煮つめて塩(藻塩)を作ったと思われる。この時使われる製塩用の土器が弥生・古墳時代を中心に九州から東北にかけての海岸部で多数出土している。それでは縄文時代はといえば出土した土器の分布から推察すると茨城、宮城、岩手、青森と東北地方に集中している。瀬戸内海で始まるのが弥生前期で、若狭や三河、能登、九州は弥生後期から古墳前期にかけて始まっている。それも平安時代に塩田法(砂浜に広い塩田を作りそれを海水で満たし天日で乾燥させそれを繰り返し濃い塩水を作りそれを煮つめて塩を採る)が導入されるとともに廃れていった。
 これに由来するのか宮城県塩釜市に塩竈神社があり7月初旬には「藻塩焼神事」が行われる。ただ残念なことにここでは煮つめるために鉄製の釜を用いる。釜の中に海水を入れ沸騰させるとともに釜の上にはすのこを置きその上にホンダワラ(海藻)を載せそれにたぎった海水をかけることを繰り返し煮つめた後布で濾して粗塩を採るというもの。どうも本来の藻塩作りとは違っているように思える。
 ところで、ホンダワラ、玉が付いているような藻なので玉藻とも呼ぶ。昔は食用にしていたようで今でも地方では食されているという。海でよく見かけるが食べられるんだね。この玉藻、別名莫告藻(なのりそ)ともいう。万葉集ではこれにちなんだ歌も多い。
・潮(しほ)干(ひ)なば、玉藻(たまも)刈りつめ、家の妹(いも)が、浜づと乞(こ)はば、何を示さむ 「山部赤彦」(潮が引いたら玉藻を刈りなさい、嫁さんに「お土産は」と聞かれたら困るでしょ)
・志賀(しか)の海人(あま)の 磯に刈り乾す なのりその 名は告(の)りてしを なにか逢(あ)ひ難(がた)き 「作者不明」(志賀の海人が乾しているなのりそのように名乗っているのにどうして逢えないの)・・「なのりそ」が名乗ってはいけない「な告(の)りそ」と掛け言葉になっているため良く使われる。
・志賀(しか)の海女(あま)は、藻(め)刈(か)り塩(しほ)焼き、暇(いとま)なみ、櫛笥(くしげ)の小櫛(をぐし)、取りも見なくに 「石川君子」(志賀の海女は藻刈りや塩焼きで忙しく髪を梳く櫛を使う暇も無い)
 ようするに、縄文では宮城県を中心に製塩が盛んであった。ついでにいつのころか分からないが志賀島には海女がいて製塩も行われていた。塩竈神社についても少し調べたほうが良いなどが判った。