日本古代馬の謎2007年10月03日 00:47

 最近箸墓古墳の周濠から馬具の一種、木製輪鐙(わあぶみ)が出土した。今までの馬具の遺物は5世紀の宮城県の藤田新田遺跡、5世紀末~6世紀後半の滋賀県の神宮寺遺跡、5世紀後半の大阪府の蔀屋(しとみや)遣跡から出ている。他にも4世紀後半の山梨県の塩部遺跡や東山北遺跡から馬の骨や歯が出ている。5世紀代の古墳(群馬県高崎市積石塚古墳、長野県新井春12号墳、長野県飯田市古墳など)から多くの馬具が発見されている。6世紀以降は静岡、長野、山梨、群馬から多数の馬具が出ている。今回のものは4世紀前半のものと考えられこれで今までより1世紀も早く4世紀前半には一部の階層で馬が実用化されていた事が判った。史実では大化の改新後駅馬・伝馬の制度がつくられ公用化され、669年における新羅、唐の連合軍との戦いで大敗し軍事的に見直されるようになった。この当時騎馬民族として活躍していたのは半島にいたツングース族の夫余(前2~後5)や高句麗(前1~後7)だった。
 今、日本には在来馬としては北海道和種(道産子・・南部馬がルーツといわれている)、木曽馬、御崎馬、対馬馬、野間馬、トカラ馬、与那国馬、宮古馬のほか純血種としては滅んだが南部馬、三春駒、三河馬、能登馬、土佐馬、日向馬、薩摩馬、甲斐馬などがいる。在来馬は中型、小型種にあたるが後に著名(木曽義仲の乱における源義経の馬の優位性)になった南部馬は中型種で体高150cm以上のものもいた。
 3世紀に書かれた魏志倭人伝によれば日本には原種と呼ばれるものは無かった「この国に牛馬、虎豹、羊鵲なし」と書かれている。また「騎馬民族による日本統一」の江上波夫氏は4世紀初めツングース民族が朝鮮半島経由でモンゴル馬をもたらしたとしている。野沢謙氏は遺伝学的解析で日本の在来馬はモンゴル馬と一致し古墳時代に農耕馬として朝鮮半島を経て導入されたと見ている。しかし岩手県二戸市では先住民の遺跡より馬のヒズメや骨が出てきており野生馬がいたのではないかと言われている。
 以上より東国には原種がいたが食料としてで家畜化されていなかった。また実用馬は4世紀前半に朝鮮を経て九州に入り急速に広まった。6世紀前後では名馬を持つことがステイタスだったようで、推古天皇(554~626)が日本書紀に表した歌に「真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉の真刀(くれのまさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき 」とある。馬が本格的に軍用化されるのは7世紀後半からということでしょうか。よって4世紀前後では馬による戦闘はまだ行われていなかったようだ。

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