「南京事件」私見2006年08月16日 13:45

 昨日の続きです。第二次上海事変で勝利した日本軍は中支那方面軍 - 司令官:陸軍大将 松井石根の思惑通り制令線を越えて南京に向かうことになった。
 そのころ南京では蒋介石の指揮の元防衛線(複郭陣地)を構築し徹底抗戦の覚悟を決めていた。また蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命すると、重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めていた。この時の南京防衛軍は場当たり的に徴集したものがほとんどで精鋭とは言いがたいものであった。
 一方日本軍は損耗率が激しく士気もかなり落ちておりその上十分な兵站もなかった。中国軍は撤退する際に、家のものは全て空にし田畑を焼くという「空室清野戦術」をとったため日本兵は途中の家に押し入り食糧や燃料として家具等も強奪していった。中には強姦も犯し、逆らうものは殺傷していった。このように日本兵は一部であると思いたいが次第に野武士のごとく略奪と殺戮を平気で行う集団と変質していった。
 日本軍は中国軍のトーチカと機関銃で守られた防衛線を撃破して12月9日南京城を包囲し、投降勧告を行ったが中国側は受け入れず総攻撃を開始、12月13日に南京は陥落した。
 中国軍も戦況不利と判断し南京撤退を決め7日に蒋介石が南京脱出、続いて11日に唐生智が脱出した。多くの中国軍は置き去りにされてしまった。
 日本軍が南京城に入城した時は、中国軍の姿は見えず、脱ぎ捨てられたおびただしい軍服と武器が残されていただけであった。本当のところはわからないが中国兵は捕まれば殺されると思い軍服を脱ぎ武器を捨てて逃走を図ったものと思われる。日本軍はそれを中国軍が「便衣戦術(ゲリラ戦術・・・一般人に紛れ込み日本軍を闇討ちする)」をとるためと判断し、最初は捜査と逮捕を命令していた。しかしながらその進捗は思わしくなくしかも司令官の入城が間近に迫ったため無差別の掃討命令に切り替えられた。  南京城の陥落から約6週間にわたって城内外の掃討で大規模な残虐行為が行われ特に婦女子に行われた行為は陰惨を極めた。第16師団師団長中島今朝呉中将は、日記において、捕虜を取らず、殺害する方針であることを書いている。この時の被害者は数千人から数十万人と諸説があるが少なくとも数万人規模であるには違いないと思う。この時百人斬り競争を行っていた野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉および非戦闘員の三百人斬りを行ったとした田中軍吉陸軍大尉は南京軍事法廷で死刑になった。山田支隊(第13師団の一部) - 歩兵第103旅団長:陸軍少将 山田栴二は上部からの命令で捕虜1万4千人を殺害と日記に記している。他にも捕虜が収容された後殺害され長江に捨てられたことなど記録や証言が残っている。
 この時の中支那方面軍司令官:陸軍大将 松井石根は後に極東国際軍事裁判において、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。また次の責任者上海派遣軍司令官:陸軍中将 朝香宮鳩彦については天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいて訴追されなかった。第10軍司令官:陸軍中将 柳川平助は1945年に死亡しており、首謀者たる第16師団師団長:陸軍中将 中島今朝呉も同じく1945年に死亡しており結局生き残っていた第6師団長:陸軍中将 谷寿夫が南京軍事法廷に起訴され無実を主張しながらも聞き入れられず、全ての責任を取らされ死刑となった。
 軍部の慎重な作戦も一部の過激派に押し切られ次々と戦線を拡大し、人として扱われない兵士の心は次第に荒廃し殺戮と略奪を繰り返す暴徒と化していった。平時はいかに紳士であっても一旦戦争になれば暴徒化する所業は歴史的にも列挙にいとまがない。日本人が中国人を虐殺していったように、ソ連人がドイツ人を米国人が日本人(沖縄)を虐殺するなど数々の証言が得られている。(戦勝国においてはその所業は不問とされている)かといってその所業が正当化されるべきものでもない。日本人も戦争の怖さや残虐性を過去の一ページとして風化させるのではなく終戦記念日を契機に語り続けなければならないだろう。それが究極的に平和を維持するキーポイントとなりそうだ。
 日本だけではなく日本も含めた平和に関心を持ち続けていきたいものだ。そのためにも靖国神社の問題は真剣に考えていかなければならない。中国にとってA級戦犯だけの問題でないことはこの南京事件だけでも推察できる。
 ところで今日はサッカーですね。楽しみ、楽しみ。