ある「ぼたもち」考 ― 2006年03月19日 03:23
牡丹餅(ぼたもち)、お萩(おはぎ)、どうでもいいようだが一つのルーツが気になった。お彼岸は仏教の浄土思想に由来する仏事の一つで、もともとは宮中や貴族の間で信仰されていたが、それが民間に広まるのは平安時代末期から鎌倉時代にかけて。日本で彼岸会がはじめられたのは806年(大同1年)といわれている。この時崇道天皇のために諸国の国分寺の僧が七日間「金剛般若経」を唱えたとの記録が「日本後記」にある。
一方、平安時代に中国から「玄猪(げんちょ)の祝い」の風習が渡ってきた。それは旧暦10月の亥の日に餅を食べて無病息災、子孫繁栄を祝う習わしで、最初は宮中のみで行われていたが、後に武家や民間にも広がっていった。西日本の農村では、亥の子は田の神様、農業の神様として信仰され、10月と2月(または6月)の亥の日に収穫祭や豊作祈願祭として祝うようになった。関東でも、十日夜(とおかんや)として祝われた。この神は春には田にくだり田の神となり、秋には山に帰って山の神となった。秋、収穫された新米で作られた餅が亥の子餅で、中国から渡ったときは、「大豆、小豆、ゴマ、くり、大角豆(ささげ)、柿、糖」の七種類だったが日本の宮中では猪が多産なことより女房がそれにあやかるために餅を猪に似せてつくりそれを贈りあう風習が出来た。室町時代には「赤、白、黄、ゴマ、くり」の五色が作られた。
また、この月は神無月(旧10月)にあたる。出雲以外は神の不在の月である。日本中の八百万の神々が女祖神伊邪那美命の追悼のために出雲に集合する。この時神を送り出すときに各地で「神送り」の神事が行われた。この神様に持たせる弁当が、生のもち米とうるち米を半々にして杵でついてそれをわらつと(わら入り納豆のわらの入れ物のイメージ)に入れたもの。「後で団子汁(すいとん)にして食べた。」
宮中においてもこの神不在の時、恐らく厄除けとして小豆粥や赤飯を食べていたと考えられる。(古代日本では、赤米や小豆などの赤色の食べ物に呪術的効果があり、魔除けや穢れ払いなどに多用されてきた。)また神のお弁当にこの赤米で作られた餅を供えていたのではないだろうか。この餅は粒が萩の花に似ていることより「お萩の餅」と呼んだと思われる。そこから「おはぎ」の呼称が生まれたのではないだろうか。時代は下がって江戸時代では、文献(文政6年:1823年、船場安土町の水落家行事帳)によれば「おはぎ」の記述があるが赤米ではなくもち米、うるち米、小豆で作られていたようだ。他に黒砂糖を加えたものの記述もある。
このように、仏事で「おはぎ」をお供えする風習は「亥の子」や「神送り」の神事との混同で宮中より始まったと考えられる。
一方、「ぼた餅」は農家で出来の悪い米(ぼた=二級品、質の悪い)を使ってつくった餅ということで「ぼた餅」と呼ばれていたが江戸っ子の洒落で秋の萩に対し春の牡丹ということで「牡丹餅(ぼたもち)」とあてられるようになったのではないだろうか?
本当にどうでもいいことですが、春秋に関係なく気取れば「おはぎ」、庶民派は「ぼたもち」が正解ではないだろうか?ワテはもちろん「ぼたもち」ダス。
一方、平安時代に中国から「玄猪(げんちょ)の祝い」の風習が渡ってきた。それは旧暦10月の亥の日に餅を食べて無病息災、子孫繁栄を祝う習わしで、最初は宮中のみで行われていたが、後に武家や民間にも広がっていった。西日本の農村では、亥の子は田の神様、農業の神様として信仰され、10月と2月(または6月)の亥の日に収穫祭や豊作祈願祭として祝うようになった。関東でも、十日夜(とおかんや)として祝われた。この神は春には田にくだり田の神となり、秋には山に帰って山の神となった。秋、収穫された新米で作られた餅が亥の子餅で、中国から渡ったときは、「大豆、小豆、ゴマ、くり、大角豆(ささげ)、柿、糖」の七種類だったが日本の宮中では猪が多産なことより女房がそれにあやかるために餅を猪に似せてつくりそれを贈りあう風習が出来た。室町時代には「赤、白、黄、ゴマ、くり」の五色が作られた。
また、この月は神無月(旧10月)にあたる。出雲以外は神の不在の月である。日本中の八百万の神々が女祖神伊邪那美命の追悼のために出雲に集合する。この時神を送り出すときに各地で「神送り」の神事が行われた。この神様に持たせる弁当が、生のもち米とうるち米を半々にして杵でついてそれをわらつと(わら入り納豆のわらの入れ物のイメージ)に入れたもの。「後で団子汁(すいとん)にして食べた。」
宮中においてもこの神不在の時、恐らく厄除けとして小豆粥や赤飯を食べていたと考えられる。(古代日本では、赤米や小豆などの赤色の食べ物に呪術的効果があり、魔除けや穢れ払いなどに多用されてきた。)また神のお弁当にこの赤米で作られた餅を供えていたのではないだろうか。この餅は粒が萩の花に似ていることより「お萩の餅」と呼んだと思われる。そこから「おはぎ」の呼称が生まれたのではないだろうか。時代は下がって江戸時代では、文献(文政6年:1823年、船場安土町の水落家行事帳)によれば「おはぎ」の記述があるが赤米ではなくもち米、うるち米、小豆で作られていたようだ。他に黒砂糖を加えたものの記述もある。
このように、仏事で「おはぎ」をお供えする風習は「亥の子」や「神送り」の神事との混同で宮中より始まったと考えられる。
一方、「ぼた餅」は農家で出来の悪い米(ぼた=二級品、質の悪い)を使ってつくった餅ということで「ぼた餅」と呼ばれていたが江戸っ子の洒落で秋の萩に対し春の牡丹ということで「牡丹餅(ぼたもち)」とあてられるようになったのではないだろうか?
本当にどうでもいいことですが、春秋に関係なく気取れば「おはぎ」、庶民派は「ぼたもち」が正解ではないだろうか?ワテはもちろん「ぼたもち」ダス。
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