小泉首相靖国神社参拝2006年08月15日 14:34

 今日も暑いですね、今日からまた復帰します。よろしくです。
 今朝、7時41分小泉首相が靖国神社に公人として参拝した。今までは8月15日の参拝は中韓を刺激するということより避けていたが、9月の退任を控え中韓の反発も限定的と踏み切ったもの。
 ところで、靖国問題の是非を問う前に13日、14日と2夜連続で「NHKスペシャル!!」で日中戦争について「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか」「日中は歴史にどう向きあえばいいのか」の特集が放映された。
 それによるとまず戦争の発端は現地軍の暴走であるがそれを追認した陸軍軍部首脳の責任により拡大していった。この中で後に処刑された武藤章が参謀本部作戦課長時に提唱した「対支一撃論」が脚光を浴びた。これは蒋介石率いる国民党と軍閥が対立する中国は弱体化しているので一気に攻めれば攻略できるとの考えであった、また満州国建国作戦の二番煎じでもあった。盧溝橋事件は昭和12年7月7日、支那陣地の対岸で相手に通告もなくはじめられた夜間練習中、支那側から発砲された数発の銃弾から勃発した。8日に2時間ほどの激戦が行われたが9日には停戦が行われた。その後11日には停戦協定が結ばれた。(これを「北支事変」と呼ぶ)本来ならばここで終結していたはずの戦闘も、25日の「郎坊事件」や26日の「広安門事件」などの支那側の挑発行為により再燃し28日の両軍の武力発動、29日の全面戦闘へと広がっていった。ここで支那側を打ち破った日本軍は蒋介石が立てこもる上海にせまっていった。しかしここで日本軍を待ち受けていたのは蒋介石の罠であった。当時蒋介石はドイツと密約を結び、ドイツから武器を輸入するとともにドイツ軍事顧問団の指導の下、精鋭部隊を育てていた。武器も戦闘機200機、戦車200両、他に機関銃(当時最強といわれた軽機関銃でチェコスロバキア製2B26軽機関銃、毎分550発発射、日本軍は「チェッコ」と呼んで怖れていた。)を装備。当時日本と同盟国のはずのドイツ総統ヒットラーは「日本との協調関係は続けるが中国への武器輸出も偽装できる限り続ける」とし、表面的には日本との同盟を装いながら裏では武器商人として中国から莫大な外貨を稼いでいた。この精鋭部隊が守る上海に日本軍は8月13日に上陸戦闘開始(第二次上海事変)これより全面戦闘に突入し、9月2日には支那事変と改称された。この戦闘に勝ったものの日本軍は損耗率50%以上(全兵士に対する死亡、負傷兵の割合)という損害をこうむり現地の士気も低下していた。しかもその当時軍首脳部は戦線の拡大を恐れ、早期戦闘終結を考えていた。(上海と南京の間の都市蘇州と嘉興を結ぶ線を制令線としこれを越えることを禁じた。)蒋介石も外国の目を向けさせるために外国領事館の集まる上海租界対岸の「四行倉庫」を最後の砦とさせた。しかしながらブリュッセルの国際会議では日本への経済制裁は発動されなかった。本来ならばここで終結すればよかったのだが、陸軍の戦闘派上海派遣軍司令官松井石根の意向を受けて後の陸軍大臣下村定は本部の決定に沿わず御前会議において独断で陸軍は制令線を越え南京攻撃を想定していると上奏。これに対し本部は下村を叱責のみで許し、南京攻略令が発せられることになる。これに対し蒋介石はかねてから打診していたソ連への参戦を促していた。軍部の暴走と蒋介石のあらゆる手段を用いた抵抗のうちに戦闘はいよいよ過激さを極めていったがそのお話は次の機会に。
 蒋介石の重大決意として「廬山談話」が知られているがそれは
(1) 中国の領土主権に対するいかなる侵害もゆるさない。
(2) 中国の内政に対するいかなる干渉も認めない。
(3) 徹底的犠牲、徹底的抗戦により全民族の生命を賭して国家の存続を求むべき。
 なお、再放送の「NHKスペシャル!!」を一度見られるといかがでしょうか。
8月16日(水)深夜1:10~(17日午前)「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか」
8月17日(木)深夜1:10~(18日午前)「日中は歴史にどう向きあえばいいのか」