古代塩余談(3)2007年10月07日 01:15

 先の志波彦大神とはどんな神様でしょうか?記紀を始め各書にもその伝承がないにもかかわらず明神大社に列せられている。シワとは「物の端」を示す言葉で大和朝廷の権力が広がるに従ってシワの位置も北上していると見られている。「志波・斯波・紫波・志和」が当てられており仙台市内に志和町、仙台市宮城野区岩切八坂の志波彦大神、宮城県栗原郡志波姫町の志波姫神社、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社、志和古稲荷神社そして謎の志賀理和気神社。(一説では北上川の川底に赤い大石があり、川波がたつと美しい紫色に染まった。以来、「紫波」と呼ばれるようになったとあるが、私には最初の説の方が妥当のように思えるが。)
 これらのことより志波彦と志波姫からなる国津神(土着神)とも考えられている。農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょうか?
 志波城は、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢(いさわ)地方において蝦夷(えみし)の首長アテルイを滅ぼした翌年の803年に城柵として北上川・雫石川合流地近くに造営した。その後、雫石川氾濫による水害のため、南方(現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田)に徳丹城(とくたんじょう)が造営され、志波城は約10年でその役割を終えた。ここで志波から紫波へ移っている。志波姫神社はご祭神を木花開耶姫命(コノハナノサクヤビメ)としているがそうすれば志波彦は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)ということになり由緒が伝承されていないのが不思議である。従って別の神ということになる。
 私が謎のと付けた志賀理和気神社は祭神が不詳と言われているが延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である経津主神、武甕槌神の二神を当地の鎮守として勧請合祀したと伝えられている。他にも大己貴神(大国主)、少彦名神保食神(稲荷)、猿田彦命 、船霊神を奉斎している。地元では赤石神社、赤石さんと呼ばれている。この社名「志賀理和気」(しがりわけ、しがりわき、しかりわけ)とは何だろうか、神の名前だろうか?一つに隠された国津神、山の民マタギの首領をシカリと呼ばなかっただろうか?彼らが道案内として協力したとすれば・・・。シカリとはアイヌ語で丸いという意味もあるらしい。赤石が丸かったのだろうか?それが御神体に・・・。
 一つは蝦夷(えみし)の首長アテルイの祟りを抑えるために祀られた神ではなかったかと思っている。そして押さえとして二武神を置いた。「日本紀略」によれば田村麻呂の説得でアテルイとその副官モレは部下500余名とともに投降した(4月15日)。二人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は二人を使い他の仲間を降伏させることを提言したが、時の貴族たちに「野生獣心、反復して定まりなし」として反対され、8月13日に二人は河内国で処刑されてしまった。結果的にだまし討ちにしてしまった二人の霊を慰めるために田村麻呂が主無き神社を建立したのではないだろうか?(二人は朝敵なので表立っては祀れない。)