おせち料理の由来2005年12月28日 01:28

 おせち(御節)の語源は

 ・節(せつ)の日に特につくる料理やお供えの餅。
 ・正月や五節句などの節日(せちにち)の事。

 古くから朝廷で使われている「御節供」(おせちく)の略で節日に行われる宴「節会」(せちえ)の席で振舞われる御馳走の事。平安時代には、1月1日に元日節会(がんじつのせちえ)、1月7日に白馬節会(あおうまのせちえ)、3月3日に上巳祓(じょうしのはらえ)、5月5日に端午節会(たんごのせちえ)、7月7日に乞巧奠(きっこうてん)、9月9日の重陽節会(ちょうようのせちえ)、11月の豊明節会(とよあかりのせちえ)などの節日がありました。ここから五つの節句、 1月7日の人日、3月3日の上巳、 5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽が出来ました。従っておせちは必ずしも正月だけに食べる料理ではありませんでした。
 一方、庶民はというと関西では「蓬莢」(ほうらい)、江戸では「食積」(くいつみ)というのが、昔でいうおせち料理を指す言葉でした。
「蓬莢」(ほうらい)とは、さかのぼること平安時代から祝儀の席や宴会での飾り付けに使われていたものが、室町時代になると、主にお正月の飾りとされるようになり、飾りとしてだけでなく、食べられるようになりました。
 具体的にどのような物かと言えば、三方の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、搗ち栗(かちぐり)、昆布、野老(ところ)、馬尾藻(ほんだわら)、橙(だいだい)、海老なども盛り付けられました。野老(ところ)とは山芋の一種でひげ根が多く海の老(海の老人)に対して野山の老(野の老人)といわれています。
 御節が重箱に詰めた正月料理を指すようになったのは、第二次世界大戦後の話しで、デパートでお正月料理を売り出す際に、「おせち」という言葉を使ったため、日本中に「御節」=「正月料理」というイメージが広まったそうです。また、おせち料理を箱詰めにしたのも、デパートが最初のようです。
 中身としては祝い三肴(田作り、数の子、黒豆)をはじめとし、紅白蒲鉾、昆布巻き、えび、伊達巻、ごぼう、錦玉子、お多福豆、栗きんとん、菊花かぶ、紅白なます、こはだ粟漬等が縁起物として食べられています。
 特に祝い三肴は、江戸時代にこれさえあれば正月は立派に迎えられるとされていました。この三つが選ばれたのは、徳川幕府が農業立国をたてまえとしていたためで、正月は元来農事を主とした祭りで、農民は黒豆のように日焼けするまで健康で働いて、数の子のように将来の働き手である子孫を増やし、ごまめ(五万米=田作り)のように、米を五万と作り年貢を払うようにとの幕府のご都合主義からだそうです。由来を聞くと「なんだかなー」と思いますが昔は肉を食べなかったためいずれも貴重な蛋白源、当時をしのんで食べてみるのもいいかも。