「雛祭り」由来2006年03月02日 23:04

 明日3月3日は「雛祭り」、各地で行事が催される。昔は「上巳の祓い」といって3月の「最初の巳の日」で厄を祓う日とされていた。その後五節句の一つとされ3月3日に固定された。また「桃の節句」ともいうが3月3日では梅ならまだしも桃では少し早すぎる。昔は「旧上巳」を指していた。(それは今年では3月29日にあたる。)所によっては一月遅れの4月3日を「雛祭り」とするところもある。確かにこちらのほうが、桃の花の季節である。桃は邪気(じゃき)をはらう、霊気(れいき)を持った木として敬(うやま)われてきた。
また「雛」の語源は昔の宮廷の「ひいな遊び」の「ひいな」からきており、「ひいな遊び」は今で言えばおままごとのようなもので、人形も紙でできた質素なもの、それにおもちゃの家財道具を使って女の子だけでなく男の子も一緒に遊んでいた。
 この日は中国では水辺にでて禊(みそぎ)をして災厄を祓う日、それが後に「曲水の宴」や桃の酒を飲む風習となった。それが日本の上流階級に伝わって、舟や水辺で遊び、白酒を飲む風習になった。(白酒には魔除けの効果があるとされている)

 一方、日本においても古くから水で身を清めて穢れ(けがれ)をはらう禊(みそぎ)が行われていた。また陰陽道において「人形(ひとかた)」で身体をさわり身の穢れや病や罪を移し、災い(わざわい)から逃れるという呪法があった。

 この二つが結びついて「人形(ひとかた)」を身代わりに禊(みそぎ)をさせるという「流し雛」の風習にかわっていった。おそらく最初は「流し人形(ひとかた)」だったのが「人形(ひとかた)」が子供の遊ぶ「雛」と混同して「流し雛」となったのではないだろうか。なお、人形を流せる川などがない場所では村の道祖神のところに捨てる「捨て雛」も行われた。また神社や寺院に納めて祈祷(きとう)してもらうことも行われた。

 ★「曲水の宴」:起源は中国「秦」時代とされ、清らかな水の流れに、盃を流して禊祓(けがれをはらう)の儀式として行われたのが始まりといわれています。
 晋の永和9年(353年)3月3日中国蘭亭にて催された宴が、現在の形として伝わっています。日本では、日本書紀に485年曲水の宴が行われ、又続日本書紀には728年聖武天皇が宴を催したとあり、古くより宮中を中心に行われていたことを知ることができます。
 現在曲水の宴が行われているところは「福岡県太宰府天満宮(3月の第一日曜)」「鹿児島県仙厳園(4月の第一日曜日)」「京都城南宮(4月29日)」「岩手県毛越寺(5月第4日曜日)」等です。少し異なるが和歌の神様である大阪の住吉大社では4月3日に江戸時代から松苗神事として平安時代から伝承されている熊野舞(くまのまい)や白拍子舞(しらびょうしまい)が奉納され松苗の植樹と和歌ではなく俳句の披露があるそうです。(少し的外れ?和歌は新年と仲秋の名月の時献じられる)
 ★「流し雛」:穢れ(けがれ)を移した人形(ひとかた)を舟(笹、アシ、ススキ)に乗せ川や海に流す。
 ★「人形(ひとかた)」:最初は、形代(かたしろ)という単なる切り紙や草木、ワラ、アシ、ススキで出来たものだったものが天兒(あまがつ)と呼ばれる顔を描き簡単な服を着たものも現れてきた。それから次第に質素だがそれぞれの家で工夫した手づくりの人形(紙製や土製)になっていった。

 この祓う(はらう)ための人形が次第に華美になり雛人形に変わっていった。この雛人形を祭り、美しく着飾って「雛遊び」をする風習が、宮廷や貴族の間に広がっていった。このように最初は「雛遊び」で女の子の祭りではなく、災い(わざわい)を祓う(はらう)行事でした。
(「源氏物語」の須磨の巻に、光源氏が「流し雛」をする記述があります。)
 現在の「雛祭り」の形になったのは江戸時代の初頭のころで宮廷や幕府で行事が行われ、30年ほどかけて定着していった。江戸中期には新生の女子に雛人形を贈る習慣が出来てきた。また、大奥や宮廷を中心とした「女子の節句」になっていった。それが庶民にも広がり、明治時代になると農村にも広がっていった。

 ★最古の雛祭り:寛永6年(1629年)に後水尾天皇の中宮が娘のために「雛遊び」をしたとの記録がある。
 ★雛人形を贈る習慣:徳川家光の長女が3月5日の生まれだったことより、七歳の佳儀の祝いと「桃の節句」の祝いを兼ねて諸老臣より雛人形の贈呈があった。この時より大奥では女の子が生まれるたびに雛人形が贈られる風習が出来た。
 ★女子の節句:最初は女子の節句ではなかったが、五月五日の「端午の節句」が「菖蒲(しょうぶ=尚武)の節句」として男子の節句とされるにしたがって対として女子の節句とされていった。

 雛人形の遍歴も、江戸初期では平壇・立ち雛が主流だったものが公家の正装をかたどった人形の出現で重ね壇になっていき、内裏雛、官女、大臣、五人囃子の華美な形になっていった。今では五段・七段などいろいろな形の雛人形(ひなにんぎょう)があり、並べ方も多くあります。また飾(かざ)り方は地域によってさまざまです。(たとえば内裏様、男雛は関東では向かって左ですが関西では逆です。今はどちらでも構わないとの事)

 雛人形には、生まれた子供が健康で貞淑な女性に育つようにとの親の願いが込められています。つまり、雛人形をその子の人形(ひとかた)と考えて、どうぞ災いがふりかからず無事育ちますように、また、美しく、幸せになりますようにという、思いを込めて飾るのです。お供えも菱餅、白酒、雛あられ、桃の花、菜の花、炒り豆、雛の貝(ハマグリやアサリ)など全てゲンかつぎなものばかり。(雛の貝は、貝の模様が同じものは一つとしてなく、別の貝とは決して合わない事より貞操を表す。)

 私は男ですが、明日は散らし寿司にハマグリのお吸い物でも食べましょうかね。白酒や菱餅はないけれどもうすぐお彼岸、牡丹餅(ぼたもち)が食べられることだし我慢しましょう。

 ★余談ですが大阪の住吉大社と和歌山県和歌山市の加太にある淡島神社(人形神社ともいう)はご夫婦であるらしい。(淡島神社が妃神)淡島神社は女性特有の病気に霊験があらたかと民間で篤く信仰されています。私の推測ですが住吉大社(昔は海に面していたと考えられる)で流された「流し雛」が大阪湾を下ってその出口にあたる加太に流れ着きそこで祭られるようになったとは考えられないでしょうか?